8月19日の日記

2004年8月19日
風邪っぽい感じ、復活。
鼻、微熱、頭痛。
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ネタがないので帰省中にふと思ったことでも書くか。

前にも書いたけれど、私が実家に居た頃は(父方の)祖母とは別々に暮らしていて、ここ数年で痴呆が進んできたので同居するようになり、今はさらに状況が変わって祖母は老人施設に入っている。

同居するようになって、前から祖母の家にあった神棚がうちにきた。
祖母が家にいるときはもちろん祖母がお供え物やらなんやらいろいろやっていたけれど、今は母がやっている。

世の中が変化すると共に伝統とかがすたれるということはよくあるが、日本人の生活の中での神棚や仏壇、お寺や神社の存在、それに対する意識も変わっているだろう。
祖母の世代、母の世代、そして私の世代でかなり差があると思う。

例えば神棚の榊を定期的に替える・お盆にお墓参りに行く、ということを見ても、祖母はきちんとそこに心があるというか、敬虔な気持ちを持っていると思うが、母そして私と年代が進むに連れそういう気持ちは薄れていく。

祖母が施設に入ったから仕方なく神棚の手入れ等をしている母を見て、なんて気持ちがこもってないんだろう、と思った。
ただ義務的に形式的にやっているだけだ。

そこで相反する2つの思いが生まれる。

一つは、そんな形式だけのことをやっても意味がないんじゃないか、ということ。
もう一つは、でも伝統はなくしちゃいけない、ということ。

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・・・とここまでは考えたんだけど、その先を考えてないので、日記もここまでしか書けないんだけど(^^;)

でも、母を見てそう思ったものの、母を責めることはできないなぁ。
何故なら私はもっとひどいと思うから。
だって、私が実家に帰った日に神主さんが来たけど、何やるか思い出せなくて母に聞いちゃったもん<2礼2拍手

この先、どうなるんだろう。
私らの世代が50代くらいになった時、どうなってるんだろうな。
「心がなければ意味ない」と思ってやめてしまうか、形だけであっても伝統を守っているのか。

母の実家は仏壇なんだよね。
対象が違うわけ。
結婚やなんかで元々自分が信仰してたり慣れ親しんだものと違う環境に入る場合、気持ちはどうなんだろうか。

例えば私がキリスト教の人と結婚したとして。
旦那がミサに行くと言っても一緒には行かないだろうけど。
子供ができたとして、旦那が子供に洗礼を受けさせたい、と言ったとしたらどうする?

あと、夏に私の実家に帰ったとしたら当然お墓参りがあって、キリスト教の旦那にはやり方とか全然わからないだろう。
墓参りは先祖に対する気持ちが大切なんで、その気持ちさえあれば信仰が違おうが別に普通にまわりにあわせてお参りすればいいとは思うけど。
でも結婚した相手の先祖なんてはっきり言って知らんわけで。
もっと広い意味で今の世界を築いてきた人たち、と考える・・・とすると特定の家系の墓参りをするのは矛盾があるし。
結婚相手をつくってくれてありがとう、くらいの気持ちか(^^;)
やっぱり形式的になるよなぁ。
墓参りに行かなきゃ済む話だけど、「僕は(私は)信仰が違うから行きません」とかいいにくいだろうしなぁ。

・・・・・わけわかんなくなってきた(^^;)
しかもほとんど想像の話だし・・・。

私は無宗教だし生活にそういうものもないので、相手がどうだろうとある程度対応できるだろうけど、それこそまさに形式的。

あーーー。
なんてまとまりがないんだ(^^;)
この辺でやめておこう。
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そう言えば、slow music slow live の時、住職さんがいろんな人にいろんな形でもっと気軽に来て欲しいからライブとかやってる、って言ってたなぁ。

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